« 2016年7月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年8月 3日 (水)

ネタバレ感想かよ・・・#シン・ゴジラ

 どうも世間的には絶賛の嵐となっている模様だが,私的には正直評価しかねる,という感じである。まだ1回しか観ていないというのもその理由の一つであろう。が,それだけでもないと思う。「これこそ俺が観たかったゴジラだよ!」という歓喜の思いと,「こんなのゴジラじゃねーよ!」という全否定フレーズが頭の中でせめぎあっている感じである。多分何度見てもこれは続くと思う。

 今更指摘するまでもなく,「シン・ゴジラ」は,「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の焼き直しである。アスカがいる。レイがいる。シンジ君もいる。みんな年を喰って社会人になってる。彼等が「コドモ」だった時に彼らを導き支えたミサト,リツコ,ゲンドウは出てこない。けど,社会人になった彼らの中にその残存が垣間見える。エヴァも出てこない。当たり前だ。みんな乳離れしてて当然の年齢なんだから。

 作品が焼き直しであることをとやかく言うつもりはない。名をはせた映像作家が,出世作のプロットをもう一度練り上げてよりスケールの大きい作品に仕上げることは,よくある話だ。「ターミネーター」→「タイタニック」,「風の谷のナウシカ」→「もののけ姫」,「デジモンぼくらのウォーゲーム」→「サマーウォーズ」。そもそもヱヴァンゲリヲン新劇場版だって,テレビ版の正常進化であった。そう考えると,「シン・ゴジラ」は3段階目の進化作品と捉えることもできそうである。

 一方「シン・ゴジラ」は「パトレイバーシリーズ」で我々ヲタクが手中にした「リアル設定世界における壮大な虚構」という文法も踏襲している。というか,その手法を練りに練って考えうる最上の位置まで引っ張り上げたと評価できるかもしれない。

 この点は,真に凄かった。会議ばかりが続くコドモガン無視ストーリーの密度の高さは,思い出しただけでも震えが来るほどである。また,最初の上陸時に描かれた街が音を立てて崩壊していく有様は,私たちが5年前に直面したリアル映像すら上書きするほどの出来栄えであり,思わずスクリーンから目をそむけたくなった。

 1954年作成の初代ゴジラが,12年戦争末期を通過した日本人に与えたであろう強烈なインパクトと同種の衝撃がこの国の2016年のスクリーンに現出したことは,それだけでも十分に価値があることかもしれない。
 少なくともこの点において「シン・ゴジラ」は「ビキニ環礁での水爆実験はゴジラ駆逐のためのミッションだった」などという噴飯モノ設定を押し付けたハリウッド製前作とは別物である。

 志の違い。ゴジラを描く資格を持つ者はやはりこの列島の住民に限られるのであろう。今般,この正当な資格を持つ者によってゴジラがリボーンしたことは,この列島の住民として喜ばしきことである。そういう意味で「これこそが私が見たかったゴジラ」なのである。

 では,「こんなのゴジラじゃねーよ!」という感想はどこから出てきたのかというと(1)最終決戦のショボさ(2)コドモ置いてけぼり展開,ってことになるかな。

 

(1)は惨い。ホント惨い。最終兵器が重機と電車ってのは,気持ちわからなくもないけど,やはり物足らない。ヤシマ作戦の発展版であれば,そこにはやはりポジトロンライフルがなくてはイカン。

 (2)は判断の難しいところだが,おそらく日本中の映画館にはゴジラを見に来たコドモ達が多数いただろうと思うのである。私のような元コドモも含めて。そのコドモ達の期待にこの作品は答えられたのかなという疑問が,やはり残る。そこをズバッと切ったことで作品は深みを得たが,失ったモノも少なくはないだろう。それがゴジラを今後どこに進めていくのか。時の経過を見守るしかないのかな。

 そしてもう一点。これはゴジラ映画としての不満ではなく,この作品故の不満として,幕の引き方があまりに甘々だったのが気になる。首相,官房長官以下お偉いさんを劇の途中でごっそり葬り去ったドライさで,もっと辛い切り口で映画を閉めて欲しかった。庵野さんなら十分にそれは出来たと思うんだけどな。この辺,どういう「政治的な動き」があったのか,気になるところ。

 ともあれ,今の心情をこうやって吐露したことで改めて決意したことがある。やっぱ,あと何回か劇場で観ようそうしようそうしよう。


 

 

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2016年7月 | トップページ | 2016年10月 »